木口福祉財団 ロビーコンサートvol.20
6月8日(水)13:30〜 要申込
久しぶりのコンサートです
お会いできますのを楽しみに致しております
歌うことは希望を語ること、生きることは喜びも悲しみもわかちあうことかけがえのないあなたに「いのちの歌」をお届けします。
自分には負いきれない重荷を負わされた時、誰に助けを求めればいいのでしょうか? 万策尽きたその時こそ、イエス様により頼んでいきましょう!
Baritone, Piano & 編曲 時田直也
# 慕いまつる主なるイエスよ 新聖歌191・聖歌557
作詞:Thomas A. Dorsey 訳詞:中田羽後 作曲:George N. Allen,1812-1877
2022/4/26 REC at 時田直也音楽事務所
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*#ほっこりさん :時田直也の #VoiceLetter 毎月最終日 20:00start リクエスト受付中
*時田直也の#聖書朗読 #ライブ 毎週水曜日 20:00start
*時田直也の折にふれて心に響いた曲の数々、随時アップしています (弾き歌いとPiano演奏)
「千の風になって」リクエストをいただき、ありがとうございました
改めて聴きながら・・・雑感
ウクライナで亡くなった方々を思う時、そして今日は東日本大震災で津波に流され、まだご遺体が見つかっていない方のドキュメンタリーをNHKのクローズアップ現代で拝見しました
人それぞれに人生には終わりがありますが、この歌の歌詞を受け入れることが出来ない方もおられるだろうと思った今日の一日でした
わたしのお墓の前で泣かないでください・・・
そう言われても、やっぱり悲しくて涙があふれてきますよね
大事な人であればなおさらに
その悲しみの中で、癒されていくことを祈ります
歌うことは希望を語ること 生きることは喜びも悲しみもわかちあうこと かけがえのないあなたに「いのちの歌」をお届けします
ロシアのウクライナ侵攻のニュースを耳にすると、いたたまれない気持ちになります。
戦争というのは弱い立場の人が虐げられていきます。
人間の尊厳が失われます。 とはいうものの、殺さなければ殺されるという心理状態が働くのも現実です。
一言で「平和を」と言っても今は虚しい現実があるばかりです 無力であることを感じずにはいられませんが、それでもやはり歌うことを通して「平和」の大切さを発信し続けていくべきだと思います。
時田直也のVoice Letter #ほっこりさん
2022/4/30 Baritone, Piano & 編曲 時田直也
#ほっこりしよう 作詞・作曲:時田直也
# 慕いまつる主なるイエスよ 新聖歌191・聖歌557 作詞:Thomas A. Dorsey 訳詞:中田羽後 作曲:George N. Allen,1812-1877
# 心の緒琴に 讃美歌531 作詞・作曲 : Peter P. Bilhorn 訳詞:日本基督教団讃美歌委員会
# My Singing Life 作詞:山川啓介 作曲:南やすお
Piano 時田直也
#慕いまつる主なるイエスよ 作曲:George N. Allen,1812-1877
#心の緒琴に 作曲 : Peter P. Bilhorn
#やすかれわが心よ 讃美歌298 作曲:Finlandia,1899(Op.26),in 1932
2022/4/26 REC at 時田直也音楽事務所 ♫~~~~~~~~~~~~~~♪~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
先日、花が大好きな義母が「紫蘭の花」を頂きました
鉢植えから庭先の花壇に植え替えましたが、雨に撃たれても可愛く咲いています
最後の歌詞もいいですね
春まだ遠く悲しむ人よ あなたを愛す❣️
谷村新司さんの #陽はまた昇る を時田直也でお聴きください
親愛なる I 長老の前夜式と葬儀式に参列させていただいた二日間でした。
とても穏やかな美しいお顔でした。思わず「とってもハンサムです 今までもハンサムでしたけれどそれ以上に!!」と言ってしまいました。「となりの熊さん」も指で触れさせていただいてお別れをさせてくださいました。
思い出を振り返りながら、この二日間 I 長老の人生をお伺いしてフィリピの信徒への手紙2章6〜8節の言葉が今、わたしの心に響いています。
思い出は尽きませんが、天国での再会を待ち望みつつこれからの残された日々を過ごしてゆきたいと思います。
I 長老の愛唱歌「ガリラヤの風薫る丘で」は「となりの熊さん」まだ収録していなかったので後日にということで、今日はこの曲を聴きながら I 長老を偲びたいと思います。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 フィリ2:6−8
十字架にかけられて3日目、墓の中に遺体を見つけることができずに帰ってきた弟子たち、天使の「イエスは生きておられる」との言葉を聞いて、そのことはどういう事なのだろうと話しながらエマオへの道を歩いていた時、イエスご自身が近づいて共に歩かれ、ご自身について書かれていることを聖書全体にわたって説明された・・・
彼らは「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、時を移さずエルサレムに戻ると十一人とその仲間が集まって本当に主は復活してシモンに現れたと言っているところで、自分達の経験を話し始めます
(ルカによる福音書24章参照)
イエス様がクレオパともう一人の弟子に聖書全体を通してご自身のことを説明されたその事柄が時代を超えて私たちにも同じように語られていることを知るとき、わたしの心も熱くなるのです
ウクライナで拷問を受けた人達がいるというニュースがTVで流れていました
軍人の職務とはいへ、拷問することを訓練する部署もあるということである
心が凍りついてしまいます
人は人を人として見ることを止めた時から人間では無くなってしまうのでしょう
戦争は全てのものを破壊することでしかない
そして、それを経験した人の悲しみは消えることはないのです
ウクライナはさとうきび畑ではなくひまわり畑でしょうか・・・