風がやってきた

私にとって「風」は音楽です。
そして、「音楽」もまた風なのです。

〜 風がやってきた 〜

五月の神戸明るい日差しの中、
小高い丘をとぼとぼと歩いているひとりの男性。
腕には赤ちゃんが抱かれています。

何を見せても反応を示さない赤ちゃん。
未熟児網膜症で生まれつき目が見えない幼子でした。

「これからこの子をどうやって育てよう・・・」

重い心を引きずったまま、
少し休もうと彼は立ち止まりました。

そんな彼と赤ちゃんの間を
さーっと爽やかな風が吹き抜けていきました。

その時です。

手足をばたばたさせて、
その赤ちゃんが体いっぱいに喜びを表しました。

今まで何を見せても何の反応も示さなかった
自分の息子が喜びを全身で表したのです。

「この子が喜んでいる・・・」

「この子を育てていける」

「この子を育てて行こう」

爽やかな風はその父親に勇気と希望を与えたのです。

私、時田直也が生後六ヶ月のことでした。

エッセイ集「風ふく道で〜光の声をききながら」より

これが私の原点・・・

風を喜ぶ子を抱き、五月の風を抱く
 亡き父の俳句

風ふく道で

〜 挫折を越えて 〜

生まれたときからずっと見るという経験のないそんな私に両親は音の世界を大切にしたいと、幼い頃から童謡などのレコードをよく聴かせてくれました。

繰り返し聴くうち自然に音楽の世界に惹かれ、6歳の頃よりピアノをはじめました。
点字楽譜を使っての地道な練習が楽しめなくなり、16歳でピアノを 中断。
その後19歳の時、声楽と出会い、
自分の体を楽器にして心が表現できる喜びを見出し、歌の世界に踏み出しました。そして、改めて点字楽譜の良さを見いだしたのです。
音楽の道に進む決心をし府立盲学校専攻科音楽科に進学。ピアノを再開するも、専門的なレッスンが進むにつれ能力の壁にぶちあたり、ストレスに悩み、アトピー性皮膚炎をおこし、学校を休学。家で悶々とする日々が続きました。

そのトンネルに入った状況から抜け出すことが出来たのは両親をはじめ周囲からの温かい励ましと、敬愛するドイツのバリトン歌手、ヘルマン・プライの甘くやわらかく、そして力強い自然体の声でした。
特に繰り返し聴いた曲はシューベルトの「冬の旅」。24曲の連作からなるこの歌曲は恋に破れた一人の若者の絶望の歌ですが、ヘルマン・プライの声を聴いていると、絶望の向こう側に希望の光が感じられました。

「こんな風に聴く人の心に響くような歌を歌えるようになりたい・・・」
歌うことへの情熱が再びあふれてきました。
その後、大阪音楽大学声楽科に進学。
学生時代ふとしたきっかけで始まった「ふれあいコンサート」が今も私のライフワークになっています。

その歌との結び付き、
よみがえる思い出・・・、
歌への感じ方は人それぞれ、
声を出した瞬間からその歌はもう私のものではないのです。

自分を越えた大きな力によって歌わせて頂いている・・・
音楽にはそんな偉大な力を感じずにはいられません。

見たことの無い風景を声で表現することに戸惑い、自信を失っていた大学時代。
恩師の先生が「大切なのは感性。こころで感じること。音楽は目に見えないものだから、目の見えない君にしか歌えない歌がある」
と励まして下さった言葉が今も心に響いています。

目が見えないことは不便ではありますが
決して不幸ではないのです。
今、生かされている喜びと輝きを歌いつづけてゆきたい。
歌うことは希望を語ること。

この思いを歌にのせて語ります


「歌声に希望をのせて かけがえのないあなたへ」Youtube▶︎

光の声をききながら

独り言を言いながら自分の世界に浸って一人遊びをしていた少年時代、落語にはまり落語家に憧れた学生時代、声楽と出会い音楽の道を志した青春時代。

この青春がまだまだ続いています。髪の毛は少し?薄くなってはきましたが、歌に対する情熱はまだまだ燃え続けています。今までは序章、これからが本番!!

あのそよ風の喜びを体全身に感じた日から歌い続けて還暦を過ぎ、第二の変声期を越えてた今だからこそ伝えたい「メッセージ」をバリトンの声にのせてお届けします。

人生を感じながらお聞きください!

「あの日の感動を人に伝えたくとも、同席した者にしかわからない空気に説明しようもなく、もどかしさを覚えながらもひとり心の中であの時の倖せを温めております。」とのお便りもいただきました。

ご一緒に心の旅をいたしましょう!!

 コンサートは一期一会、お一人おひとりとの出会いを大切に声の続くかぎり歌い続けてまいります。

かけがえのないあなたに

「いのちの歌」をお届けします!!

 

歌芝居 好演中
マタイ福音曲〜幸い〜


 

時田直也音楽事務所